広島に在る幟(のぼり)町!のぼり由来の町名にまつわる秘密は400年前までさかのぼった!

のぼりラボ今回は、少しローカルな話題をご紹介。

「のぼりラボ」は、広島市に拠点を置きながら日々のぼり旗や屋外広告の調査や研究をしています。そんな広島市内で以前から少し気になっている地名がありました。

その地名とは、ズバリ「幟町」。なんと幟(のぼり)が地名になっているのです。

日々のぼり旗を専門に扱う企業として、気になる地名。しかも地元である広島市です。

一体その地名の由来はどこから来たのか。

どのような歴史の中で「幟町」という地名となり、現在まで残っているのか。

のぼりラボの地元である広島市で気になる地名「幟町」について調査してみました。

文献から見る幟町の歴史。始まりは戦国時代

まずは幟町について、文献を調べてみました。

古事類苑全文データベース - Kojiruien

古事類苑全文データベース(日本文化研究センター) : 古事類苑 第3巻641頁 地部二十七 安芸国

この「古事類苑(こじるいえん)」とは、明治政府によって編集された一種の百科事典であり、日本史の基礎研究資料とされているものです。

その資料の中で幟町を含む広島市の起源について記述を読むと、それは安土桃山時代にまでさかのぼることが分かりました。

天正16年(1588年)。

当時、安芸国(現広島県)を治めていた、毛利氏の当主である毛利輝元(もうりてるもと)が、大阪城・聚楽第(じゅらくだい)をお手本として、広島の地に新しい城を造ります。

そして、そのわずか3年後の天正19年(1591年)。

まだ工事が終わっていないのに、輝元が未完成のお城に入城してしまいます。

慌てたのは家臣達。次々と城の周辺に屋敷を建てて移り住みます。

しかし当時の毛利氏と言えば、当時、中国地方一体を治めていた大々名ですから、その家臣も大多数。

城の周りには、多くの屋敷が建ち並んで形成されていった町が、広島市の起源となり現在まで続いています。

実は後付け設定?人々の営みに由来する町の名前。

では、肝心の「幟町」という町の名前。

資料によると、広島城築城と共にあった町の一角に「幟町」という名前がついたのは、築城から約30年後くらいだとあります。

1600年に「関が原の合戦」で西軍が破れ、西軍の大将であった毛利家も長州藩(山口県)を治める外様大名として、大きく領地も削られて、広島城も没収。

広島藩の藩主には浅野長晟(あさのながあきら)が任命されました。

その長晟が広島城下町の整備・拡張を進めていくのですが、その際、現在の幟町となる地域に「御旗の士」と呼ばれる藩主の白旗を任された武士たちが住む場所を割り当てます。

旗はやがて幟(のぼり)と呼ばれ、幟を任された武士が住む町が由来となり「幟町」という町が誕生します。

つまり「幟町」という地名は、そこに住む人たちの職業に由来して根付いた地名なのでした。

町の名前だけが歴史を語る今、地名から新たなのぼりの魅力を探る。

今でも幟町ではのぼりや旗を作りが盛んで、製造業者がたくさんあるの?

と言えば、残念ながら違います。

現在は、オフィスビルや飲食店が軒を連ねる、広島市内でも多くの人が集まる地域となっており、のぼりラボの拠点も幟町からはやや離れたところに位置します。

かつての「御旗の士」の様子や風情が伺える建物や史跡が町に残っていれば良かったのですが、1945年8月6日に投下された原子爆弾の被害によって、多くの古い建物が焼失してしまいました。

しかし「幟町(のぼりちょう)」という地名をインターネットで検索しますと、広島のほかに徳島県にも同じ地名があることが分かりました。

こちらは、まだまだ詳細な調査までには至っていないのですが、やはり「のぼり旗」に因んでいそうな名称で、気になる調査対象です。

地名には、地域の歴史や伝統・文化といった背景が色濃く反映されていることが、多々あります。

かつて幟を扱う人がたくさん居たから「幟町」という町が出来ました。

その例にならって、現在のぼりラボがある「西風新都(せいふうしんと)」を、私たちの力によって「現代の幟町」とすることを目指しても良いのかも知れません。

その為には、のぼり旗と、そこにまつわる歴史や文化などについてもより深く探っていく必要があります。

のぼりラボに新たな目標が生まれました。

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