シリーズ|広告のある風景 目立つよりも、愛されたい。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

屋外広告の在り方について調査・研究を重ねる「のぼりラボ」。
この度、学術的な観点からのアプローチを模索する中で、なんと、「広島大学 教育学研究科 造形芸術教育学講座(デザイン) 准教授」として活躍しておられる「八木 健太郎(やぎ けんたろう) 博士(学術)」にご寄稿いただけることとなりました!

まちなみの景観や、風景における文脈を考える中で、時としてノイズとなってしまう「屋外広告」はどのように活かされるべきなのか。
屋外広告法に代表される法律やルール、色彩や屋外広告とまちなみの歴史など様々な研究から紡がれる「屋外広告の在り方」とは。
これまでの記事とは、また一味違う「のぼりラボ」を是非ご覧下さい。

広告に囲まれた生活

道頓堀
道頓堀沿いの広告

普段生活をしていて、広告を見ること無く生活することは難しいでしょう。特に、のぼりをはじめとする屋外広告物というのは、ふだんから日常生活の中でよく目にする存在です。

わたしたちが目にする広告の多くは、その広告がおかれる場所に応じて、対象が絞られ、場所や対象にふさわしいデザインが考えられています。一般の新聞に出る広告とスポーツ新聞に出る広告がずいぶん違うということをおそらくみなさんは知っているでしょう。テレビのCMについても、午後のワイドショーの合間に流れるCMと、ゴールデンタイムの時間帯に流れるCMと、深夜アニメで流れるCMではずいぶん内容が異なるということも、なんとなく気づいているのではないでしょうか。

ところが、屋外広告物については、やや例外という部分があるかもしれません。それはさまざまな人が行き交う生活空間にあるものだということも理由のひとつでしょう。おかれる場所の特徴や性質にあまり影響を受けていないように見える屋外広告物もそれほど珍しくはありません。

その一方で、屋外広告物が公共の空間に置かれるものであればこそ、風景という共有の財産に影響を与えることにもなります。屋外広告物は、そのほかの広告物に比べると、公共性が問われることも圧倒的に多いのです。

たとえばテレビのCMを見たくないという人は、見ないという選択が許されます。CMのあいだにトイレに行ったりお茶を飲んだりすることができます。録画であればスキップする人もいるでしょう。雑誌や新聞の広告も、読み飛ばすことができます。必要な記事の部分だけを切り抜いてスクラップして残しておくこともできます。

ところが、風景の中にある屋外広告物は、嫌でも目に入ってくるものですし、避けることができません。

本来、意図して見たいわけではないものを見せられる気持ちというのは、たとえばパソコンやスマートフォンなどでネット上のコンテンツを閲覧しているときに意図せず突然画面全体が広告で覆われたりしたときの、なんとも理不尽な思いと似たようなものであるかもしれません。みなさんも一度はそのような経験があるのではないでしょうか。

このようなとき、見ている消費者の不快感というのは、広告主の企業や、広告物で取り上げられている商品やサービスにも向かっていきます。それなら広告を出さないほうがよっぽど良かった、ということにもなりかねません。

目立てばよかった時代の終わり

いまの時代の広告物は、単に目立てば良い、ただ消費者の目に入りさえすれば良いものではなくなっているということを理解しておくことは大切です。もちろん、広告物ですから、ほかの商品やサービスと差別化することは必要ですし、取り上げた商品やサービスの知名度を向上させることは重要です。だからといって、目立ちさえすれば良いという姿勢だけでは、深刻な顧客離れを招くことにもなりかねません。

では、屋外広告物をデザインするときにどのようなことを考慮するべきでしょうか?

それはやはり広告物のおかれるコンテクスト、文脈に沿ったものを考えるということです。多くの広告物は、おかれる場所に応じて対象が絞られ、場所や対象にふさわしいものが提供されているというお話しをしましたが、そのような考え方は、本来屋外広告物においても考慮されるべきことです。

屋外広告物がおかれるまちなみにも、それぞれの場所に応じた特性があります。

冒頭の道頓堀の写真のように、建物を覆い尽くすような広告物で溢れかえったような場所もあります。同じような例としては、ニューヨークのタイムズスクエアなどもよく似た特徴を持つ場所であると言えるでしょう。そのような場所であれば、日夜光り輝く巨大なネオンサインやデジタルサイネージが、風景の構成要素としてふさわしいものとして受け入れられることもあります。それが地域の魅力を作り出したり、観光資源になったりもします。ただ、それは世界的に見ても例外的な場所であるという理解も必要です。

広告主のみなさんには残念なお知らせかもしれませんが、建物全体を覆い尽くすほどに巨大な屋外広告物というのは、一般的には歓迎されるものではありません。極端な例えではありますが、たとえば先の道頓堀にあるような巨大な屋外広告物が、郊外にある住宅地のあなたの家の隣の敷地にあるとしたらどうでしょうか?目立つことは間違いありませんが、明らかに場違いで迷惑な存在であるということに、多くの人が同意するでしょう。

ここまで極端な例であれば、つまり普通の住宅の隣に一晩中光り輝く巨大なネオンサインを設置する、といった状況であれば、広告を出す側の立場にある人も含め、多くの人が「それは間違っている」という考えを共有することができるかもしれません。ところが、屋外広告物に関しては、多くの場合そこまでは極端ではありません。広告を出す側は、自分の土地にこの程度の広告を設置するのは当然だろうと思っているわけですが、それを見せられる側からすると、その地域の文脈にふさわしくないと感じるということが多々起こります。

もちろん、そのような摩擦とは無縁な屋外広告物ばかりであれば幸せなのですが、なかなかそういうわけにもいきません。業界によっては、たとえ地域から反発されようと自分のところが儲かればそれで良い、という企業文化があるようにさえ思います。

しかし、目先の利益のために悪目立ちするよりも、やはり場所の文脈に沿った屋外広告物を提供することによって、企業も地域社会の一員として責任を果たすとともに、地域社会からも信頼される存在となることの方が、長期的には企業価値を向上させるという、広告本来の目的にあったものであると思います。

愛される広告物を作ること

成熟した社会においては、企業の社会的な責任も問われるようになってきています。ただ、お金を儲けられられれば良いと考えるだけではなく、社会の一員として、いかに利益を社会に還元していくのかということも問われる時代となっています。

それは企業が屋外広告物を設置する際の姿勢についても同様です。

テレビCMやネット上の広告は、企業の商品やサービスに関する広告を見ることによって、無料でコンテンツやサービスが提供されるという側面があるので、比較的受けいられやすいということはあるでしょう。しかし、そのような広告でさえ、見る人の特性や文脈に応じて提供したほうが、消費者に対する訴求効果が高い、という原則にしたがって提示されているのです。

一方、屋外広告物では、そうしたサービスの対価として提供されるものであるということがまったく無いとは言いませんが、そのようなケースはまれでしょう。

日常生活のなかで目にする屋外広告物は、生活する立場からすれば、基本的には見ることを強制される筋合いは無いような存在です。そのような存在であればこそ、いかに目立つかということよりも、いかに見る人の好感と共感を得ることができるのか?という視点にたった屋外広告物がもっと増えて欲しいと思います。

そのためには、その広告物が美しくデザインされたものであるとともに、広告物のおかれる場所の文脈を考慮してその風景に馴染むデザインであることも重要です。そして、本来的には、規制されているから仕方なく従うということではなく、そのような意識が自然と地域で共有されていることが理想です。その意味で、これまでのぼりラボでも紹介してきた竹原の例などは、地域のもつ価値を地域で生活する人々がしっかりと意識して共有している、理想的な地域社会であると言えるでしょう。

    参考記事
  1. シリーズ「屋外広告は風景だ」重要伝統的建造物群保存地区を巡って探る「屋外広告のあるべき目立ち方」とは?- 広島県竹原市-【第一回】
  2. シリーズ「屋外広告は風景だ」重要伝統的建造物群保存地区を巡って探る「屋外広告のあるべき目立ち方」とは?- 広島県竹原市-【第二回】
  3. シリーズ「屋外広告は風景だ」重要伝統的建造物群保存地区を巡って探る「屋外広告のあるべき目立ち方」とは?- 広島県竹原市-【第三回】

次回はまちなみと広告物の関係という視点から、風景のなかにある広告物としての美しさや、風景に馴染むデザインについて、もう少し詳しくお話したいと思います。

——————–

筆者

八木健太郎

八木 健太郎(やぎ けんたろう) 博士(学術)
広島大学 教育学研究科 造形芸術教育学講座(デザイン) 准教授
神戸大学で建築を学んだ後、ワシントン大学とローマで建築とデザイン、アートの研究。
西日本工業大学デザイン学部准教授を経て、2015年に広島大学に着任し、デザイン領域を担当。
ホームページ

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
トップへ戻る